モデルベースシミュレーションで加速するPEM燃料電池開発
Published on January 26, 2026 · 3 min read
燃料電池のバーチャル開発を実現するためには、膜レベルの物理現象から車両レベルの統合まで、システム全体を表現できるシミュレーションプラットフォームが不可欠です。AVL CRUISE™ M は、まさにそれを実現するために設計されたプラットフォームです。
CRUISE M は、電気、熱、液体、ガスといった複数の物理領域を1つのフレームワーク内で統合的に扱えるマルチフィジックス環境を提供します。さらに、スタック、加湿器、コンプレッサー、バルブ、熱交換器など、PEM燃料電池向けの専用コンポーネントライブラリを備えており、実機構成を忠実に再現したシステムモデルの構築を支援します。
本プラットフォームは、低温型(LT)PEMおよび高温型(HT)PEMの両方の技術に対応しており、同一環境内でさまざまなコンセプトを評価することが可能です。本記事では主にLT-PEMシステムのモデリングに焦点を当てますが、CRUISE M は HT-PEM モデリングにも対応しています。この点については、別のブログ記事「AVL CRUISE™ Mにおける高温PEM燃料電池モデル」で詳しく紹介しています。
また、PEMFC System Generator や PEMFC Stack Wizard といった組み込みのパラメーター設定ツールにより、モデルパラメーターの整合や設定作業を効率化できます。さらに、オープンインターフェースを備えているため、制御システムや外部ソフトウェアとのシームレスな連携も可能です。単一の燃料電池スタックから車両全体のシステムモデルまで、CRUISE M はエンジニアが燃料電池性能を精度高くモデリング、解析、最適化できる環境を提供します。これにより、よりクリーンで高効率なモビリティの実現に向けたイノベーションを加速します。
CRUISE M は、燃料電池開発のあらゆる段階に適用可能なシミュレーション環境を提供します。最も小さなスケールでは、セルおよびスタックの挙動を詳細に解析でき、電気化学反応、加湿挙動、さらには劣化モデルまで含めた評価が可能です。構築したモデルは、そのままシステムレベルの解析へ拡張することができ、BoP(Balance of Plant)コンポーネントや制御ロジックとスタックの相互作用を含めた検討が行えます。これにより、システム運転がスタックの長期的な劣化にどのような影響を与えるかを評価することが可能になります。
このワークフローはさらに車両レベルの統合検討へとスケールアップできます。対象は、乗用車、大型トラック、鉄道、マリン、さらには航空宇宙分野にまで広がります(図1)。このようなアプローチにより、初期のセルモデルからパワートレイン全体の運用まで、すべての開発段階で一貫した評価を実現できます。
さらに、作成したモデルはシミュレーション用途にとどまらず、Model-in-the-Loop(MiL)、Software-in-the-Loop(SiL)、Hardware-in-the-Loop(HiL)環境やVirtual Testbedにも直接活用できます。これにより、同じ物理ベースモデルを用いて、ハードウェアが完成する前の段階から制御開発、キャリブレーション、システム検証を進めることが可能となり、開発から実機試験までの一貫性を維持できます。
このアプローチについては、AVLイベント SIMpulse におけるセッション「 From Challenges to Solutions: Leading PEM Fuel Cell Innovation Through Simulation」でも詳しく紹介しています。
低温型(LT)PEM燃料電池システムの開発は、単にスタックをモデリングするだけではありません。実際の運転条件下でシステム全体がどのように挙動するかを理解することが重要です。スタックの性能は、周辺の Balance of Plant(BoP)コンポーネント ― 空気および水素供給系、加湿、冷却、水管理、制御システム ― がどれだけ適切に連携して機能するかに大きく依存します。
こうした相互作用を、コンポーネント、システム、車両といった異なる階層で捉えることは、コンセプト設計から検証に至るまでの各段階をシミュレーションで支援する V字開発プロセスの考え方にも対応しています。
図2に示すように、LT-PEM燃料電池システムの完全なモデルは、水素供給系、空気供給系、熱マネジメント、燃料電池スタックといった主要サブシステムを含み、それらを単一のシミュレーション環境内で統合して構築されます。
次のセクションでは、これらの各サブシステムについて詳しく説明します。
低温型(LT)PEM燃料電池スタックは、システムの中核を担うコンポーネントです。供給される水素と酸素の量に応じて電力を生成し、これらの反応物を電気、水、熱へと変換します。図3に示すように、LT-PEM燃料電池スタックは電気化学反応、ガス流動、熱、電気といった複数の物理領域を統合して表現されています。
CRUISE M のライブラリに含まれる PEM Fuel Cell Stack コンポーネントには初期設定データが用意されていますが、対象とするスタック仕様に合わせて調整することが可能です。入力されたパラメーターに基づき、モデルはスタック性能の主要指標(KPI)を計算します。これにより、設計寸法や設定値が妥当な範囲にあるかを確認するための目安が得られ、不整合や非現実的なモデル入力を防ぐことにも役立ちます。
水素は、LT-PEM燃料電池にとってエネルギー源となる重要な媒体であり、スタックを効率的かつ安全に動作させるためには、流量、温度、圧力を適切に制御して供給することが不可欠です。この役割を担うのがアノード側媒体供給サブシステムです。ガスの流れ方向を含むサブシステム構成を図4に示します。
空気供給サブシステム ― 酸素供給の制御
LT-PEM燃料電池では、カソード側に適切な酸素供給が必要です。空気供給サブシステムは、スタックに対して適切な質量流量、圧力、温度、湿度の空気を供給し、さまざまな運転条件下でもシステムを安定して動作させる役割を担います。空気の流れ方向と主要コンポーネントを示したサブシステム構成を図5に示します。
LT-PEM燃料電池システムでは、適切な温度管理が極めて重要です。スタック温度が低すぎると十分な性能を発揮できず、逆に高すぎる場合はコンポーネントの早期劣化につながる可能性があります。そのため、信頼性と効率を確保するためには効果的な熱マネジメントシステムが不可欠です。並列分岐と冷却水の流れ方向を示した熱マネジメントのトポロジーを図6に示します。
モデルの構築はあくまで出発点に過ぎません。重要なのは、そのモデルを活用して実際の開発課題に対応するシミュレーションを実施できることです。本モデルはマルチフィジックス特性を備えているため、さまざまな実運用シナリオや運転条件を再現し、幅広いユースケースを検討することが可能です。
ここでは、その代表的な例として、シミュレーションが設計判断をどのように支援し、燃料電池システム開発をどのように加速するかを示すいくつかのユースケースを紹介します。
スタック劣化モデリングと寿命予測
スタックの劣化は、燃料電池スタックメーカーにとって最も大きな懸念事項の1つです。スタックはシステムコストの大部分を占めるコンポーネントであり、劣化が進行すると完全交換以外に修復が難しいという特徴があります。
スタック自体は、運転条件に非常に敏感なコンポーネントです。具体的には、圧力レベル(絶対圧およびアノード側とカソード側の差圧)、湿度(膜を十分に加湿できる一方でフラッディングを引き起こさない範囲)、温度(反応速度を高めるのに十分高いが、過度に高くならない範囲)などが挙げられます。これらの要因はスタックに対するストレス要因として作用し、その長期的な挙動や劣化特性に大きな影響を与えます。
これらの条件が適切に制御されない場合、スタックでは化学的劣化および機械的劣化が進行します。これらが複合的に作用すると、内部抵抗の増加、セル電圧の低下、さらにはシステム故障につながる可能性があります。劣化速度は寿命目標や保証設計に直接影響するため、ほぼすべての開発ユースケースにおいて重要なKPIとなります。
CRUISE M では、燃料電池システムモデルに機械的および化学的劣化モデルを組み合わせることで、スタックの長期挙動を再現できます。デモンストレーションとして、25,000時間の加速ストレス試験を実施し、劣化挙動を評価しました。この試験では1000倍の加速係数を適用しています。
その結果、セル電圧およびスタックの出力密度が時間とともに徐々に低下する様子が確認されました。図7では、青色が新品スタック、ピンク色が劣化したスタックを示しています。さらに、インピーダンス分光(EIS)ダイアグラムでは内部抵抗の増加も確認できます(青:新品スタック、ピンク:劣化スタック)。
このような知見により、運転戦略の評価、設計コンセプトの比較、BoP(Balance of Plant)の最適化を行うことが可能になります。結果として、時間のかかる耐久試験に過度に依存することなく、劣化速度を抑え、可能な限り長い寿命を実現する設計を検討できます。
このテーマについては、AVLイベント SIMpulse のセッション「Next Chapter in PEM Fuel Cell Development: From DIY to Smart Simulation」でもさらに詳しく紹介しています。
Compressor Matching for Optimal Air Supply最適空気供給のためのコンプレッサーマッチング
LT-PEM燃料電池の空気供給システム設計では、スタックが適切に「呼吸」できるようにすることが重要です。中でもコンプレッサーは最も重要なコンポーネントの1つであり、適切な流量と圧力で空気を供給し、すべての負荷条件下で効率的かつ応答性の高い、信頼性ある運転を実現する役割を担います。
コンプレッサーの選定は、まず燃料電池スタックの要求仕様から始まります。スタックの出力要求によって、必要な酸素量と圧力が決まります。ここから、化学量論(ストイキオメトリ)、電流値、ガス特性に基づき空気質量流量を算出し、必要な圧力比は、カソード側の熱交換器や加湿器などの圧力損失を考慮して決定します。
さまざまな運転点でこれらの相互作用をシミュレーションすることで、スタック電流に応じて質量流量や圧力比がどのように変化するかを可視化できます。これにより、システム動特性に関する貴重な知見を得ることができ、過大でも非効率でもない、性能目標を満たす最適なコンプレッサー選定の基礎となります。
このプロセスは図8に示されています。左・中央の等高線プロットでは、異なる電力レベルにおけるカソード圧力とストイキオメトリに応じたスタックおよびシステム効率の変化を表しています。右側のプロットは対応する空気質量流量と圧力比のマップを示しており、コンプレッサーの運転がスタック性能にどのように影響するかを視覚的に把握できます。
CRUISE M では、この一連のプロセスが単一かつ一貫性のあるモデル環境内に統合されており、開発初期段階から正確なシステムサイズ決定、コンプレッサーマッチング、性能評価を行うことが可能です。
低温型PEM燃料電池におけるコールド・フリーズスタート
LT-PEM燃料電池では、低温環境でのスタートが大きな課題となります。低温下では、電気化学反応で生成される水が膜内部、ガス拡散層、ガス流路で凍結し、反応物の供給を妨げるだけでなく、スタックにダメージを与える可能性があります。そのため、コールドスタートの手順は極めて重要です。特に、自動車用途のようにあらゆる気象条件での信頼性と即時の出力供給が求められる場合には必須です。
凍結条件でのスタートにはさまざまな戦略があります。例えば、スタート電流の調整、外部加熱の適用、シャットダウン中のシステム乾燥パージなどです。ここでは、代表例として電流密度の調整について簡単に触れます。
一見すると、コールドスタート時に電流を増やすのは合理的に思えます。電流が増えれば発熱量が増え、加熱が早くなるからです。しかし、LT-PEM燃料電池ではこの考え方が逆効果になることがあります。ある研究では、周囲温度 -25°Cで、高電流密度(約0.42 A/cm²、図9の実線)でスタートしたスタックは、低電流密度(約0.29 A/cm²、図9の破線)でスタートした場合よりも性能が劣ることが観察されました。これは、高電流密度では加熱が早まる一方、水の生成も速くなるためです。この水が触媒層内で凍結し、ガス流が遮断されることで、スタートは約95秒で失敗してしまいます。
さらに、異なる電流密度でのスタート試験も行われ(図9)、周囲温度が高め(-15°C)ではスタート電流密度の影響は小さいものの、より低温(-25°C)では、スタート電流密度の選定が、失敗と成功の差に直結することが確認されました。
詳細にご興味がある方は、ウェビナー 「Optimizing Your PEM Fuel Cell Cold Start Strategy」をご覧ください。
パージバルブ戦略の最適化 ― 効率と寿命向上のために
パージバルブ戦略は、LT-PEM燃料電池の運転およびBoP設計における重要な要素です。効率を最大化するために、スタックを通過した未反応水素はシステムに再循環されます。同時に、窒素や水など他の成分も再循環されます。水は水分離器によって除去されますが、窒素は時間とともに蓄積し、局所的な水素不足、電圧低下、全体性能の低下を引き起こす可能性があります。
この水素不足は、炭素の腐食を加速させ、触媒層を恒久的に損傷し、スタック寿命を短くします。これを防ぐために、スタック出口にパージバルブが設置され、窒素を循環ループから除去します。しかし、窒素を排出する際には、同時に水素も一部失われます。このため、窒素を効率的に除去しつつ、水素損失を最小限に抑える最適なパージ戦略が求められます。これにより、信頼性の高い性能とスタック耐久性の両立が可能になります。
研究の一例として、運転の大部分でバルブを閉じるケースをシミュレーションしました。消費された水素に加え、窒素や水のクロスオーバーにより、アノード出口付近で局所的な反応物不足が発生します。その結果、局所電流密度が低下し(図10.a)、上流のセグメントが一時的に電流生成を引き受け、目標電流密度(黒の破線)を維持します。これに伴い、カソード触媒電位は開回路電圧(OCV)方向に上昇し(図10.b)、アノード触媒電位はセル電位差を維持するために変化し、アノード側電圧が増加します(図10.c)。その後、パージが作動するとループ内の窒素が除去され、水素濃度が回復し、通常の反応条件が復元されます。
最新の情報をお見逃しなく
シミュレーションのブログシリーズをご覧ください。今すぐ登録して最新情報を受け取りましょう。
Read More About This Topic
最新のシミュレーションのブログ記事をお見逃しなく
シミュレーションのブログシリーズをご覧ください。今すぐ登録して最新情報を受け取りましょう。